本屋さんが何を言っているんだって思うよね。
もちろん、僕も思う。
売れてくれないと困るんだけど、だから買ってほしいんだけど。積ん読にしていてもいいじゃないっていう話。
実は、僕、積ん読にしている本が山のようにある。本当に、それこそマジで山のよう。
見える積ん読が10冊くらい。しまってあったり、仕事場以外のところにおいてある積ん読で、30冊くらいはあるんじゃないかな。多分。
読みたいなと思って買うんだけれども、ついつい、自分にいいわけして読んでいなかったりしている。
しかも、困ったもので買ってしまうのだ。本を。
だから、積ん読は永遠にたまっていく。のだと思う。おもしろい本を出す出版社のせいだ!僕は悪くない!!いいぞ!もっとやれ!!
本を買うために働いているかもしれないし、それはそれでいい。仕事が生活に支配されると嫌なのだが(例えば家賃とか、食費とか)本に支配されるのであれば悪くないと思う。それくらい本を愛してやまない。残念ながらまだ本に愛されているという自覚はないけれども。
なにが言いたいかというとですね。
本は、読みたいときに読めばいい、と思うんです。
ただ、それだけ。
無理に読む必要はないし、本を読もうかな、と思ったら読めばいい。
本を読もうと思えなかったら、読まなかったらいい。
面白そうと思って買った本を塩漬けしてしまっても、その人の自由だ。
晴耕雨読という考え方だと僕は思っている。
雨が降れば本を読み、晴れていれば畑を耕す。自由な生き方だ!って憧れていたけれども、そうではなくて、考え方を変えるだけな気がする。
本を読めない時は、何かを耕しているのだ。
それこそ自分の感性かもしれない。仕事で社会に向けてなにかを耕しているのかもしれない。一見するとびっくりするくらい無駄なことをしているようでも、もしかしたらそれは自分にとって大切なことなのではないかと。
耕しているのだから、本を読めなくてもいいのではないか。
晴れたら、耕す。雨降っている時は、本を読めばいい。元気がないとかそんなのじゃなくて、知識をつけるとき。畑が水を吸い込むとき。受け取る自分が、受け取れるという気持ちになったときに本を読めばいい。
晴耕雨読なのだ。
昔の人はほんとよく言ったものだ。
だから、なんというか。
この世のすべての人は自由なのだと思うし、この世のすべての人は自由ではないのかもしれない。みたいなことで締めておけば、それっぽく聞こえていいかな。
終わりが見えなかったこの日記、これにて終了です。