「桃を煮るひと」というタイトルを見たとき、何を想像しましたか?
台所で、大きな鍋を前に、桃をぽとりと湯の中に落とす。湯気が立ち上り、甘い香りが部屋に漂う。そんな、ありふれた、しかし何か特別な時間の断片が浮かびませんか?
くどうれいんのエッセイ集『桃を煮るひと』(ミシマ社)は、まさにそういう本です。日常の「なんでもない瞬間」が、気づけば「かけがえのない何か」に変わっていることに気づかせてくれる一冊。誰かに薦めたいとか、この感覚を共有したいとか、そういう気持ちが読後にじわじわ湧いてくる本です。
「うたうおばけ」で知られる詩人が綴る、生活の詩
くどうれいんさんは1994年生まれ、岩手県盛岡市出身の詩人・作家・俳人です。第一エッセイ集「うたうおばけ」(書肆侃侃房)で多くの読者を獲得し、若い世代を中心に熱烈なファンをもつ書き手として知られています。詩集「氷とわた」で第11回鮎川信夫詩賞を受賞するなど、詩人としても高い評価を受けています。
言葉を丁寧に扱う詩人の目と、日常を細密に観察するエッセイストの感覚。その両方を兼ね備えたくどうさんの文章は、一度読むと忘れられない。「また読み返したい」と思わせる引力があります。
そんな彼女の第二エッセイ集が、この『桃を煮るひと』。出版社はミシマ社。独立系出版社ならではのつくりの丁寧さと、くどうさんの言葉の豊かさが融合した、手にとるだけで温かい気持ちになる本です。
「食べること」から始まる、生の探求
この本を貫くテーマのひとつは「食べること」です。桃を煮ること。スーパーで食材を選ぶこと。誰かのために料理をすること、あるいは自分だけのためにこっそり作ること。
くどうさんの筆は、食卓の上から世界を見渡します。
たとえば、桃を煮るという行為。缶詰の桃ではなく、生の桃を。わざわざ皮をむいて、砂糖と一緒にことこと煮る。「なぜそんな手間をかけるの?」と問われたら、答えはたぶん、うまく言葉にできない。でも、その「うまく言葉にできない」ことこそが、人間の生活の核心なのかもしれない。
くどうさんはそういう「言葉にしにくいもの」を、詩人の目で掬い上げ、エッセイという形で差し出してくれます。読んでいると、自分の日常にもそういうものが溢れていたことに、あらためて気づく。それがこの本の静かな力です。
東京という場所で、自分を問い続けること
本書には、東京での暮らしについての記述も多く登場します。盛岡から東京へ出てきたくどうさんが、大都市の喧騒の中で感じること。孤独と連帯。人との距離感。都市の速さと、自分の時間の流れとのズレ。
東京は、便利だけれど、どこか人を消耗させる街でもある。そんな中で、台所に立ち、何かを煮ること。それは単なる食事の準備ではなく、「自分が今ここに存在している」という確認行為なのかもしれない、とくどうさんのエッセイを読みながら思います。
都会で暮らしていると、自分のための時間を作ること自体が難しくなります。ついつい何かに急かされて、台所を通り過ぎてコンビニに向かってしまう。でも、この本は「そんな時間をわざわざ作ることの大切さ」を、説教くさくなく、静かに、そして鮮やかに教えてくれる。
言葉への愛情、本への愛情
くどうれいんさんは、言葉の書き手として、言葉そのものへの愛情も深い。このエッセイ集の中にも、本について、言葉について書かれた章があります。
本が好きな人なら、きっとこんな経験があるはずです。何気なく手に取った本の一行が、胸に刺さること。ずっと探していた言葉に、思いがけないところで出会うこと。「これは自分のために書かれたんじゃないか」と感じる瞬間。
くどうさんも、同じようにして言葉と生きてきた人です。だから、彼女の書く言葉は、読者の言葉への愛情と深く共鳴します。本好きの人に特に薦めたい理由がここにあります。
ミシマ社という選択が意味するもの
『桃を煮るひと』を出版したミシマ社は、京都・東京に拠点を置く独立系出版社です。「ちゃぶ台」という雑誌を出したり、一冊一冊を丁寧につくることで知られています。部数よりも内容の密度を優先する、その姿勢が本の手触りにまで滲み出ています。
大手出版社とは違う、ゆっくりとした時間の流れの中で生まれた本たちは、どこか手仕事の温かみを帯びています。くどうれいんの言葉と、ミシマ社のものづくりの哲学は、とても相性がいい。この本を手にとると、その「あわせ技」を全身で感じることができます。
当店がミシマ社の本を積極的に仕入れているのも、この思想と向き合い方に共感するからです。
こんな人に読んでほしい
- 日常に疲れていて、でも何かに救われたいと思っている人
- 食べることが好きで、台所で過ごす時間を大切にしている人
- くどうれいんさんの「うたうおばけ」を読んで、次の作品を探している人
- 言葉が好きで、詩的な感性のエッセイを求めている人
- ミシマ社の本が好きな人
- 都市で暮らしながら、もう少し自分のペースで生きたいと感じている人
店主より
当店では、こんな本が好きです。大きな書店では見つけにくいけれど、一度出会ったら手放せない。小説でもなく、自己啓発書でもなく、誰かの「生活」がそのまま言葉になったような本。
『桃を煮るひと』は、まさにそういう一冊です。読み終えたあと、台所に立ちたくなる。桃でなくてもいい、お湯を沸かすだけでもいい。「ちょっと手を動かして、自分のために何かをつくろう」という気持ちになる。それがこの本の、目に見えない効能です。
ぜひ、手にとってみてください。
書誌情報
著者:くどうれいん
出版社:ミシマ社
ISBN:978-4-909394-88-0
ジャンル:エッセイ
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