本屋大賞2020年受賞。この事実だけで充分手に取る理由になるが、凪良ゆうの『流浪の月』は、受賞作という肩書きをはるかに超えた問いを投げかけてくる。読み終えたあとに最初に浮かんだのは、「この物語は、誰かの本当のことを、初めてきちんと書いた作品だ」という感覚だった。社会が貼ったラベルと、当事者が知る真実のあいだにある深い溝——この小説はその溝を、静かに、しかし確実に照らし出す。派手な告発でも感動的な再生でもない。ただ、見えにくかったものを、見えるようにする。それがこの作品の力だ。
著者・作品について
著者の凪良ゆうは、長らくボーイズラブ作品を中心に活動してきた作家だ。一般文芸への転向後も独自の視点と文体は健在で、2019年に東京創元社から刊行した本作で一気に注目を集め、翌2020年に本屋大賞を受賞した。さらに2022年には松坂桃李・広瀬すず主演で映画化もされ、より広い読者層に届いた。映画版もまた美しい作品だったが、小説だからこそ届く内面の声——更紗の静かな怒りと悲しみと諦め——は、活字でしか伝わらない。その後も凪良ゆうは『汝、星のごとく』で2023年本屋大賞を受賞し、日本文学を代表する作家の一人となっている。文庫版は2021年に創元文芸文庫から発売されており、手に取りやすい形で読むことができる。
あらすじ
主人公は家内更紗(かないさらさ)、9歳。母親が新しいパートナーと暮らし始めたことで親族の家に預けられた更紗は、そこでも居場所を見つけられずにいた。ある日、近くの公園でひとりの青年・文(ふみ)と出会う。文は更紗を自分のアパートに連れ帰り、2ヶ月間、ふたりは静かに共同生活を送った。文は更紗に何も強要しなかった。ただ、そこにいることを許してくれた——それだけが、更紗にとってのすべてだった。
やがて更紗は「保護」される。文は「誘拐犯」として逮捕・報道され、更紗は「被害者」として社会に位置づけられた。その物語を疑う声は誰もなかった。しかし更紗が知る事実は、社会が語る物語とまったく異なるものだった。文は自分を傷つけなかった。あの日々こそが、生まれて初めて感じた「安全な場所」だったのだ。
物語は15年後へと跳ぶ。成人した更紗は偶然、文と再会する。世間の目、過去の報道、周囲の「善意」——それらすべてをかわしながら、ふたりはもう一度、自分たちだけの時間を取り戻そうとする。更紗には恋人がいるが、彼は更紗を「守ろうとする」あまり、彼女の本当の声を聞かない。文だけが、更紗の沈黙のなかにある真実を知っていた。
「正しい物語」の暴力性
この小説が際立っているのは、社会が貼るラベルの暴力性を、きわめて丁寧に描いている点だ。「誘拐犯と被害者」というわかりやすい図式は、当事者の複雑な事実を塗りつぶす。更紗が「本当のこと」を語ろうとするたびに、周囲は「そういう言い方をしてしまうのはトラウマの影響だから」と取り合わない。善意の言葉が、当事者の声をふさぐ。
これは更紗だけの問題ではない。「正しい物語」に収まらない経験を持つ人なら、誰もが読みながら身に覚えがあると感じるはずだ。凪良ゆうはこの不条理を、感情的な告発ではなく、静かな観察として書く。だからこそ読者は、気づかないうちに「正しい物語」の側に立っていた自分に気づかされる瞬間がある。
文(ふみ)というキャラクター
文というキャラクターも、この小説の核だ。彼は自分の行動を弁明しない。「なぜそうしたのか」を説明しない。ただ更紗の前に、静かに存在する。その静けさが、言葉にならない優しさとして機能する。世間の目には「不審な男」に映るかもしれないが、更紗にとっての文は、自分を守った人だ。「誰かの真実は、他の誰かが定義できない」という主張が、告発ではなく、関係性の積み重ねとして語られる。それがこの作品を単なる社会派小説にとどまらせない力になっている。
こんな人に読んでほしい
「正しさ」の外側で生きてきたことがある人に、ぜひ読んでほしい。自分の経験を話しても「そういう見方はよくない」とたしなめられた経験がある人。あるいは、自分が知らないあいだに誰かを「正しい物語」に押し込めていないか、問い直したい人にも。恋愛小説として読むことも充分できるが、この作品が問いかけているのはもっと根本的なことだ——自分にとっての「安全な場所」は、どこにあるのか。それは世間が認めた形でなくても、本物であることがある。
読み終えて
タイトルの「流浪の月」は、常に変わらず空にありながら、満ちることも欠けることもある月を指しているように思う。見えなくても、見えにくくても、そこに確かに存在する。凪良ゆうが描くのは、そういう人たちの物語だ。社会の正解に収まりきれない何かを抱えているすべての人に、この一冊を届けたい。当店でも仕入れ予定です。入荷次第、SNSおよびこのブログでいち早くお知らせします。
書籍情報
- 書名:流浪の月
- 著者:凪良ゆう
- 出版社:東京創元社
- 単行本:2019年8月発売
- 文庫版:2021年10月(創元文芸文庫)
- 受賞:本屋大賞2020年
- 映画化:2022年(松坂桃李・広瀬すず主演)
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